第2回
光風暦?年?月?日:彷徨う女神
『考えを改めるつもりなんてないよ。君の言葉なんて、聞きたくもない』
テュエールの神殿から逃げ出したクローディアは、抜けるような青空を見上げて立っていた。
心地よさの象徴たる澄んだ空も、今の彼女にとっては、心の空虚さの象徴のようにしか思えなかった。
ここがどこか、実は彼女にも分かっていなかった。テュエールのもとから逃げたい一心で、異なる場所へと瞬間的に跳躍したのだ。
空間移動は、人にとっては奥義に等しい魔法であるが、神である彼女にとっては造作もないことであった。
しかし、半端なところに跳んだのでは、すぐにテュエールに捕まってしまう。そこで彼女は、空間的にのみならず、時間的にも異なる先へと跳躍していた。
神は皆、人間と異なり、幅・奥行き・高さの三次元方向のみならず、時間を含めた任意の位置に移動できる。人間には過去から未来への不随意移動しか許されていない時間移動を、意思にもとづいて行えるのだ。
余談であるが、これが神の普遍性・不滅性の顕現につながっており、仮に神の体力のすべてを奪うことができても、その神は別の時点から自らに干渉することで復活してしまう。ゆえに神を滅ぼそうと思うなら、時間軸への干渉が必須となり、体力を奪った神を「時障壁」で囲む必要がある。もちろんその障壁は、我々の目に見える壁と同様、破壊されない十分な強度を備えている必要もある。
人間の基本能力では時間に干渉できないので、「時障壁」も張れない。ゆえに神は人に対して無敵ともされる。
しかし同時に、これには例外もあると言われる。神が人に与えた魔力を極限まで高め、究極の姿に至った「光の戦士」という存在が伝説にある。この「光の戦士」は世界の真理をすら操ることができ、時間への干渉も可能とされるのだが、いかんせん伝説であるがゆえに信憑性が低く、人々の心のよりどころとして信じられているに過ぎないのも事実だ。
さて、蛇足はともかくとして、彼女が選んだ跳躍先は過去であった。未来に跳んでも、自分が逃げた事実を知っているテュエールに即時に存在を感知され、捕まえに来られてしまうからだ。
しかし彼女には、いつの時点、どの場所に跳べばいいのかは分からなかった。そこでそれを考えることなく跳躍し、現れた先がこの場所だったのだ。
「(ここは)」
彼女は知識と五感を使って、ここがどこかを分析した。
かすかな肌寒さを感じる。周囲の木々の葉の落ち具合から、ここが四季のある場所で、かつ初冬だと読み取った。土壌の質や植生は、これまでいたレグナサウト王国と同じに見える。ゆえにレグナサウトと近い場所だと推測した。
しかし、遠くに見える町の建物を見渡すと、その様式はレグナサウトのものとは微妙に異なっていた。おそらく、違う国家に出たのだろう。レグナサウトの近傍にあって、ほぼ同じ気候の国といえば、西の隣国フォルテンガイム連合王国か、そのさらに西のローエルン連合王国ぐらいだった。
そこで彼女は分析をやめ、町に向かって歩き出した。もっと詳しくを知る術もあったのだが、そこまでする必要も感じなかったのだ。いや、そこまでする気力がなかったと言うほうが正しいかもしれない。
青空の下を力なく歩くクローディアは、とてもはかなく見えた。以前は腰に剣を吊っていたのだが、逃げ出す時に置いてきてしまっている。魔物が出る危険もある街道を徒手で歩く様子を誰かが見たなら、心配して声をかけずにはいられなかっただろう。幸い、小一時間で彼女は無事に町へたどり着いた。
町はとても大きく、繁栄していた。堅固な城塞に囲まれたその町の門は大きく開け放たれ、複数の騎士が守衛にあたっていた。どの騎士も明るく親切で、クローディアを怪しむこともなく、旅への労いの言葉をかけつつ、すんなり中へと通してくれた。
彼女はここをいい町だと思ったが、ここがどこかは騎士に尋ねなかった。この国の者なら、おそらくは質問しない内容だったからだ。それがきっかけで取り調べを受ける危険を避けたのだ。彼女は騎士の代わりに、町の中で見つけた住人にそれを尋ねた。
「お初にお目にかかる。旅の者なのだが、よろしければこの町についてお教え願えないだろうか」
覇気には欠けるが、いつもの口調で問いかけるクローディア。
それに対し、彼女と同じくらいの年頃(といっても、クローディアの実年齢は5歳なのだが)の少女は、驚きながらも気さくに答えた。
「はじめまして、旅の方。ここはいい町ですよ。あちらに見えるお城にいらっしゃる国王陛下、ウィルバー・ドルトン陛下のおかげで、私達はとても幸せに暮らしています。ゼプタンツにようこそ」
クローディアは、電気が走ったかのように背筋を伸ばし、そして尋ねた。
「ドルトン陛下、ゼプタンツ!?」
ともに、ほんの少し前に耳にした単語だ。ドルトンはジョーの姓。そしてゼプタンツは、ジョーが治めるという国の名であり、その首都の名でもある。
クローディアは、知らずに過去のジョーのもとへと跳んでいたのだ。偶然にしては出来過ぎた話だ。もしかしたら、彼女の深層意識がそうさせたのかもしれなかった。
「ええ。ウィルバー陛下のこと、ご存じなのですね」
クローディアのただならぬ反応を、国王ウィルバーの知名度の高さと受け取った少女は、心持ち誇らしげに言った。
「うむ。『運命の戦士』ウィルバー陛下のことは、私のいたアリミア王国にもよく伝わっていた。そして、ご子息であるジョーのことも」
クローディアは王子を呼び捨てにしてしまったことに気付いて焦るが、気をよくしている少女の答えは、こうだった。
「そうなんですね。国民として嬉しく思います。
ジョーもとてもいいお方ですよ。こうして呼び捨てにさせてくださる王族って、他にいませんよね、絶対」
この国では皆、ジョー王子のことを呼び捨てにしているらしい。目を丸くして少女を見つめていると、彼女は王城の方向の雑踏に気付き、はしゃぎ声をあげた。
「ジョーはよく、この町の中を回って、みんなと話してくれるんですよ。運がいいですね、ちょうどあそこにほら!」
彼女が嬉しそうに指した先に、見覚えのある風貌の金髪の男、いや少年がいた。
はにかみながら町の住人と歓談している彼は、間違いなくジョーだった。