第1回
光風暦471年6月16日:囚われの女神
『今頃、いったい何の用だい? 僕を嘲笑いにでも来たのかい?』
クローディアは、テュエールに連れ去られてからというもの、ずっと石造りの部屋に籠もりきりだった。
彼女がいるのは、テュエールの神殿。異世界神である彼が、この世界への侵攻の象徴として、レグナサウト王国の中に造ったものだ。
少なくとも今のところは、神殿は平穏そのものだ。どこに討って出る様子もないし、慌ただしく何者かが出入りしている様子もない。
しかし拉致されてきたクローディアにとっては、そうした周囲の環境は静かなだけであって、間違っても幸せなものではなかった。
そして事実彼女は、悲しみに沈み、ずっと涙していた。
「(私はなんと不甲斐ない存在であろうか。大切な仲間を守れなかったばかりか、こうして敵に捕らわれて、なすすべもない)」
彼女がいる部屋は、一見してごく普通の寝室だ。隣には化粧室や浴室まである。日々を過ごすのに何の不自由もない、むしろ豪華なほどの部屋だ。
壁も天井も床も白く清潔で、傷んだ様子もない。
食事も必要なときに、テュエールの侍従と思われる男女が、しずしずと粗相もなく運んで来て、そして片づけていく。
だがやはり、クローディアはそれを享受する気分にはなれなかった。
「(皆とはもう会えないのであろうか)」
彼女は伏せた目を上げることもなく、旅をともにした人々のことを回想していた。
「(ランス・ダーウィン、伝説の『雷光の騎士』。いつも私への配慮に満ちていた、優しい戦士。これまでに受けた恩だけでも、何とか返したかった)」
膝の上で固く結んだ拳は、ぴくりとも動かない。
「(エブリット・リージ。テュエールに故郷の町を滅ぼされた戦士。私を執拗に狙ったのも、なりふり構わずテュエールに対抗する力を求めた結果か。
しかし、その私はこの程度の力しか持っていないのだ。さぞや失望したであろうな)」
彼女は自嘲気味に笑おうとした。しかし、あまりの悲しさに表情が凍り付き、まともに笑うこともできなかった。
「(エリシア。私の本名と同じ名を持つ天使。それは偶然なのであろうか。否、彼女とは浅からぬ縁(えにし)を感じる。
もう一度会いたかった、彼女に)」
そこで彼女はしばし頭を整理し、再び物思いにふける。
「(エドワード・リズモア。レグナサウト西部防衛軍の長である『西方の衛士』。私達の脱出を手引きしてくれた、誠実な戦士。
どうかランス達を、うまく導いていただきたい。そして)」
彼女の拳の上に、涙が一粒落ちる。
「(ジョー)」
見れば、肩が小刻みに震えている。
「(私をずっと守ってくれた、偉大な闘士。彼の心遣いにも気づかず、あまつさえ私自身の本心にすら気づかず、私はこれまで、どれほどひどいことをしてきたのであろうか。会って詫びたい。もう一度会いたい、ジョー)」
彼女は声を押し殺して泣いた。
「スルティエ・エリシア、いつまでそうして閉じこもっているつもりだい」
スルティエ・エリシア、すなわちクローディアの神としての本名を呼んだのは、この神殿の主であるテュエールだ。
食事すらまともに口にしないクローディアの様子に半ば呆れつつ、自ら足を運んできたのだ。
しかし、扉の向こうからは何の返事もない。
「神ともあろう者が情けないね。そうしたところで、未来は変わらないよ。変えさせるつもりもない」
テュエールの少年の顔貌から、声変わりもしていない少年そのものの声が発せられる。しかしその内容は冷酷だ。
彼は、再度返事を待つことはしなかった。幾星霜の時を過ごしたはずの神である彼だが、辛抱強さは見掛けの年相応程度らしい。
彼は容赦なく、クローディアの部屋の扉を開け放つ。
「おやおや」
テュエールはため息をついた。部屋の中は空だった。クローディアの気配を探り、どこにもそれが感知できないことを知った彼は、誰にともなくつぶやいた。
「逃げたんだね。いったい、どの『時』に逃げたのやら」
そして悔しがる様子もなく、肩をすくめる。
「無駄だって分かっているだろうにね。どうせ、僕のところに戻るしかないんだ。
逃げれば逃げるほど、追いかける僕が人間達を傷つけていくだけだって、分かってるはずなんだから」