第4回

光風暦471年6月10日:月夜の天使

「えっ」

 彼女にとって、その言葉は予想外だったらしい。ほのかな月明かりが照らし出す宵闇のもとでも、彼女が目を丸くしたのがよく分かった。

「あなたにぜひ、ご覧いただきたいものがあるのです。正直を申して、もう少しあなたとお話をさせていただきたいとも思いまして。いかがでしょうか?」

 非の打ち所のない好人物にそう訊ねられて、断れるだけの胆力を持つ者はそういない。「西方の聖者」と呼ばれたクローディアですらも、その例外ではなかった。

「急ぐ旅ではないゆえ構いはせぬが、なぜ私にそこまで?」

 ウェインは少しの間をとって、照れくさそうに答えた。

「その、あなただから、なのです」


 ウェインとの食事の後、宿に送られたクローディアは、彼と別れた後、寝台の上でうずくまって考えていた。

「(私は、このままでよいのであろうか)」

 半日が経って、少しは頭も冷えてきた。様々な体験をしてきた一日だったが、それを一つずつ思い出しながら、今後の身の振り方について考えを巡らせていた。身近にあることが当たり前になっていた、ジョーやランスの顔。そして自分に特別な思い入れを持っているらしいウェイン。激しく変わってしまった自らの環境に不安を覚えた。しかし、自分が蒔いた種だ。誰に相談するわけにもいかない。

 そんなことを彼女が考えたちょうどその時、部屋の扉を叩く者があった。

 自分の考えを読まれたかのような突然の来訪に、彼女は少なからず驚いた。居留守を使おうかとも一瞬思ったが、宿の主人のダニエルが来ているのかもしれない、いやきっとそうだと思い直し、扉に歩み寄りながら「どなたか」と訊いた。

「クローディア様、今日お会いしたエリシアでございます」

 彼女は、心臓が口から飛び出るような思いを味わった。今のような境遇に至ったきっかけになった人物が、なぜか扉の向こうにいる。自分は行方をくらましたつもりだったのに。その後、彼女は自分を探していたのだろうか。そうだとすれば、いったい何のために?

 そこまで考えて、彼女は努めて冷静に状況を整理しようとした。そして何とか、自分が今抱いた疑問は、彼女と話せば解消するはずだと思い至った。それで彼女は、おずおずと扉を開けることにした。

 扉の向こうにはエリシアが、出会った時のままの格好で立っていた。白い翼の生えた美しい容姿。穂を布で包んだ槍を携えた出で立ち。神のもとで戦う使者の姿が、そこにあった。しかし彼女の顔は精彩に欠けている。今日の出来事を考えれば無理もない。クローディアとて同じなのだから。

「よくこちらへ。立ち話もよろしくなかろうから、まずは中へお越しを」

 クローディアは、エリシアに対して体裁を取り繕う必要がないと感じたようで、気丈に振る舞う様子も見せず、彼女を部屋の中へ招いた。

「しかし、なぜここが分かったのだ?」

 エリシアに茶を勧めながら、クローディアは質問する。エリシアは照れたように肩をすぼめると、こう言った。

「それは、クローディア様がご自身の存在を隠そうとなさらなかったからです。神のお力をもって御身の隠匿をはかっておいでなら、私にはクローディア様を探知できなかったはずです」

 クローディアは、唐突に図星を指された思いで、一気に頬を赤らめた。自分ですら気付ききっていない心境を、彼女には既に読まれているのだ。

 エリシアが言ったとおり、クローディアには魔法的に自らの居場所を隠す力があった。しかし彼女にある迷いが、ジョー達から徹底的に隠れることを無意識のうちに拒んでいるのだ。そのことを今、自分自身でもはっきりと認識した。

 そうすると、クローディアは一気に肩の荷が下りたような気持ちになった。彼女は肩をすくめて、エリシアに笑顔を向けた。

「かなわぬな。私自身にも、なぜ自分がこのような行いに及んだのか、理解できていなかったというのに」

 エリシアは恐縮しながら言った。

「いえ、まだまだ精進が足りない身でございます」

 クローディアはかぶりを振ると、ため息をついてこう言った。

「精進が足りぬのは私のほうだ。先にも言ったが、なぜ自らがあのように取り乱したのかすら、理解できておらぬのだ」

 そして恥ずかしそうに、エリシアに訊ねた。

「私を助けると思って教えてほしい。あなたは、なぜ私があのように我を忘れた行いに出てしまったと考えるか?」

 エリシアはしばらく逡巡したが、意を決してクローディアの目をまっすぐ見つめ、答えた。

「それは、クローディア様がジョー様に特別な思いを」

 しかし、その答えはそこで打ち切られた。ただならぬ表情でエリシアは立ち上がり、槍を握りしめながら扉に駆け寄る。そして扉を開け放ち、廊下に躍り出た。

 そして警戒しながら周囲に目を配っていたが、目立ったものを発見できず、部屋に戻ると扉を閉め、クローディアに一礼した。

「何者かが私達の様子を窺っていました。ですが扉を開けた瞬間、その気配は消えました」

 クローディアはエリシアの答えに集中していたため、残念ながらその気配の主には気付かなかった。彼女は自らの不覚をエリシアに詫びた。

「すまぬ、油断していた。これからは注意しておくようにする」

 エリシアは、とんでもないとばかりに低頭した。

「いえ、私があのようなお話をさしあげたばかりに。私のほうこそ申し訳ございません。ところでクローディア様」

「何か?」

 エリシアは引き続き周囲を警戒しながら、クローディアにこう言った。

「見張られていたと分かった以上、残念ですが今宵は手短に切り上げさせていただきます。ですがその前に、一つだけ申しあげたいことがございます」

 クローディアはうなずき、先を促した。エリシアは続けた。

「ジョー様は、絶対の信用に足る方です。今日の言葉の繰り返しになりますが、ジョー様は『私達天使一同がお慕いする』に値する生き様を示して来られました。理由あって今はそのことを伏せておいでのようですが、クローディア様にもいつか、そうしたジョー様に触れていただきたいのです。それが私の願いです」

「私達『天使一同』がお慕いする方? そうか、最初に会ったあの時、あなたはそう言いたかったのだな」

 エリシアとクローディアとで、強調する部分が違った。それこそがクローディアの誤解の根本だったわけだが、ここでクローディアも自らの誤解を理解することとなった。そこでクローディアは、新たに生じた疑問を口にする。

「しかし、全ての天使に慕われる存在とは。もしやジョーは、神なのか?」

「いいえ、そうではございません。ジョー様は人間です」

 エリシアは即答した。

「ジョー様が自らの正体を語っておられないということは、私からもお伝えするべきではないと判断いたします。ですがこの先、ジョー様とともにある限りは、いつかその正体を目にされる時が来ます。ですから、すぐでなくとも、必ずまたジョー様と会ってくださいませ。私よりの、たってのお願いでございます」

 そしてエリシアは跪き、クローディアに深く頭を下げると部屋を後にした。