第1回
光風暦471年6月10日:苛立ち
耳が痛くなるような静寂。
身を刺すような冷気。
壁際でゆらめく蝋燭の火の列が遠く、そしてはかなく見える。
その空間に、帯剣した軍服の男が一人。
黒い口髭をたくわえた、短髪の屈強そうな中年の男だ。
彼を包むのは、居並ぶともし火があってなお暗い、高い天蓋に覆われた空間。
ここまでの威容を誇る広間は、王城ですらも五指で余るほどしか有していない。
その中心に男は立っていた。
そして、その男に視線を投げかけながら、部屋の奥に座する者がいる。
その姿は闇に包まれ、よくは見えない。
その人影に向かい、部屋の中心から男は言い放った。
「見つけたぞ、国際指名手配者よ!
我はレグナサウト王立防衛軍、西部防衛隊第4旅団長、オーラル・ウォーカー。
これより我が女王の命において、貴様の身柄を拘束する」
指名手配されているらしい人影の身が、かすかに動いた。
しかし、立ち上がる様子はない。小首を傾げた程の動きにとどまっている。さしたる抵抗の動きはないようだ。
にもかかわらず、オーラルと名乗った男は、大変な緊張ぶりを呈している。
その表情は固く、あまつさえ額には汗まで伝わせている、この寒さの中で。
オーラルは腰に吊る剣を見やり、拘束のための縄を手にしつつ、慎重に歩を進める。そして何事もなく、相手の眼前までたどり着いた。
「手配者テュエールよ、おとなしく拘束されよ……」
オーラルは、テュエールと呼んだ手配者の顔をしっかりと目にし、そして息を飲んだ。
そこにいたのは、年端もゆかぬ銀髪の少年。
手配書におおよその容姿は記してあり、それと矛盾はない姿なのだが、その幼さや華奢さを目にしてオーラルは少なからず動揺した。
布地をふんだんあしらった、白い豪華な衣装をまとったテュエールは、吸い込まれそうな大きな青い目で、じっとオーラルを見つめ返していた。
「僕を拘束するの?」
おびえたような顔で、テュエールはオーラルを見上げる。その様子は、手配犯としてはあり得ないほど、はかなかった。
いったい、この少年がどんな罪を犯したというのだろう。少なくともこの様子からは、答えを導き出すことなどできはしない。
手配書によって彼の罪状をよく把握しているオーラルであったが、あまりの動揺に、彼の問いへの答えを詰まらせた。
しじまの時が辺りを支配する。
テュエールはゆっくり立ち上がり、そしておずおずとオーラルに手をさしのべてきた。
そして。
何の殺気も発することのないまま、緩やかにその手はオーラルの首元へ伸びていき。
彼の首を掴んだ。
オーラルは我に返り、その手を振りほどこうとする。
しかしテュエールの力は、人外のものとしか説明のつかないようなものだった。
「この僕を、君が?」
テュエールの手はオーラルの首にぎりぎりと食い込む。
もはや言葉を発することも、息をすることもできない。
「可哀想な人間。このイヴァクス・テュエールに立ち向かうなんて。
僕に勝てる者は、この世界にはいないのに」
オーラルは、不利な体制であることを承知で、剣を抜こうとする。そこで彼は愕然となった。
彼の腕がないのだ。
「腕がなくなって可哀想だね。でも痛みはないでしょう? 僕は野蛮なことは嫌いだから」
いったいどのようにして?
何も感覚させることのないまま、テュエールはオーラルの腕を消し去っていた。
「ほら、もう足もなくなったよ。
人間は可哀想だね。こんなとき、神だったらすぐ元に戻せるのに」
悲しみをたたえつつも、彼の表情からは罪悪感は読み取れない。
「人間は自分を元に戻せない。ただなくなっていくだけ。
だから……さようなら」
そしてテュエールは、虚空を掴んでいた手をゆっくり下ろし、椅子に座り直した。
レグナサウト王国の首都を目指しての晴れた道中、クローディアは腕組みをして、難しい顔をして思いふけっていた。
湿気の少ない爽やかな風が長い銀の髪を揺らしていくが、それを気にする様子もなく考え込んでいる。
彼女はいったい、何を思索しているのか。そのおおよそは、彼女の顔つきによって雄弁に語られていた。
彼女は苛立っていた。
いったい何に対して苛立っているのかというと、実はジョーだった。
「(なぜ、このようにジョーに対して苛立つのであろう)」
と彼女自身が思ったように、クローディアにとっても説明不能なことだった。
ナハルを出てからの1週間というもの、行く先々の町や村でこれまで同様に戦士メイナードの足跡を尋ねたり、クローディアを狙う美男子エブリットに遭ったりを繰り返していた。
そんな変わらぬ日常の繰り返しのなかで、なぜか突然、ジョーに対して苛立ちを感じるようになった。
もともと「西方の聖者」とまで呼ばれた彼女ゆえ、苛立つというような感情には縁が薄い。それもあって、抑えのきかないこの感情に直面して、戸惑いを禁じえなかった。
「(寝ても覚めても、なぜここまでジョーのことばかり気になって、このように苛立つのであろうか)」
実際、ジョーが夢にまで出てくる。しかも毎晩である。そして夢の中でまで、彼の言動一つ一つが気に障り、彼女の心を波立たせるのだった。
そうして、しかめ面をしたまま無言で歩くクローディアを、大剣と盾を負った穏やかな顔立ちの青年ランスが、横から心配そうに見やっている。
ここ三日ほどは、ずっとこんなことの繰り返しで、実際ランスも何度か「大丈夫?」とクローディアに尋ねていた。だが、「すまぬが、捨て置いてほしい」と無碍に返されるばかり。それで今は、言葉を交わすこともはばかられている。
そして苛立ちの対象であるジョーは実情を知ることもなく、様子のおかしいクローディアを気にしつつも呑気な鼻歌を歌いつつ、先頭を歩いていた。
その鼻歌が今のクローディアを一層刺激していたりするのだが、そのことを直接言葉にされたわけでもなく、ジョー本人が気付くこともない。
しかし幸いと言うべきか、その鼻歌が不意にやんだ。
横にいるクローディアばかり見ていたランスが、前に立つジョーの背中に視線を投じる。
ジョーの顔は見えないが、彼の感情は口調から読み取れた。
「こいつは驚いたぜ」
その言葉どおり、ジョーは驚いていた。そして同時に、その声は嬉しそうでもあった。
腕組みを解いたクローディアは、ランスとともにジョーの脇から前を見やる。
道の前方に、長い金の髪の少女が立っていた。どちらかと言えば小柄で、憂いを帯びた顔つきもあって、はかない印象をかもし出していた。付け加えると、その容貌はどこかクローディアに似ている。
法衣に近い様式のゆったりした白い衣装をまとっているが、その右手には長い槍を携えている。ただしその穂先は布で包まれているので、臨戦態勢ではない。
そして何よりの特徴として、クローディアやランスの視線を集めたのが、彼女の背に生えた白い翼だった。
「エンジェル」
思わずつぶやいたのはクローディアだった。エンジェル、すなわち天使は神に仕える存在。神の使命を帯びて行動する天使がここにいるということは、何らかの神の意思が絡んでいることを意味する。
もちろんその「神の意思」は、ここにいるクローディア自身のものではない。
ランスもまた、天使の降臨に驚いていた。彼自身、過去に神と戦った「運命の戦士達(フェイタル・ウォーリアーズ)」の一人ゆえ、天使を見るのが初めてではない。
しかしやはり、天使がここにいる理由を読めず、口を半開きにして驚いていた。
ジョーもまた、そうして驚いたのだろうか? そう思った矢先、ジョーが喜色満面、大声でこう言いながら彼女に手を振った。そしてクローディアは、彼の言葉にとりわけ驚くこととなった。
「久しぶりじゃないかよ、エリシア!」
ジョーと旧知の関係らしい天使エリシアは、しずしずと歩いてきて、そしてジョーの前で恭しく膝をついた。
「ご無沙汰しておりました、ジョー様」
顔を伏せたエリシアには、ジョーへの恭順の念がありありと表れていた。
「ジョー『様』!?」
驚きが重なり、思わずクローディアは頓狂な叫びをあげる。
エリシアは立ち上がってクローディアに向き直り、再びひざまずいて一礼した。
「はい。大恩ある方に『様』を付けてお呼びするのは当然のことと心得ます、クローディア様」
彼女は、人造魔神たるクローディアのことも知っているらしい。エリシアの他意のない振る舞いを見て、クローディアは気持ちを落ち着けた、一度は。
「大恩」の中身が気になったが、それを尋ねる前にジョーが口を開いた。
「よせって。俺は『様』なんて大層なもんじゃないって、前にも言っただろうがよ」
気さくな彼の言葉に、エリシアははにかんだ。その顔たるや、「天使の微笑みとは、かように美しいものか」と誰もが我を忘れんばかりのものだった。
そして彼女は丁寧に頭を下げながら言った。
「ジョー様のそのようなところも、お慕い申しあげております、私」
エリシアは何かを言い続けようとしていたのだが、そこでクローディアに遮られた。
笑顔で見つめ合うジョーとエリシアを睨みながら、クローディアは言い放った。
「すまぬが、私はここより別の道を行かせていただく!」
「な、何を言い出すんだいクローディア?」
慌ててランスが止めに入るが、頭に血が上ったクローディアは聞き分けない。
「以後、私のことは気にされるな。探しても無駄ゆえ、捨て置かれよ!」
ジョーもランスも初めて見る剣幕で、早口にまくしたてる。
そして彼女は一本道の街道から外れると、草をかき分けながら、ものすごい勢いで立ち去っていった。
呆気にとられたジョーが言う。
「いったいどうしたってんだ、クローディアは?」
残念ながら、その疑問に答えを発することのできる者は、その場にいなかった。
なおお節介ながら、エリシアが言いかけた言葉は「私達天使一同」であったことを書き添えておく。