第6回
光風暦471年6月1日:影を追って
驚きのあまり、手にした剣を抜くのも忘れてユリを見るランス。
対するユリは、無表情のままランスを見続けていた。
背を丸め、腕を垂らした姿勢の彼女は、人というより獣じみた様相を呈していた。
そのまましばらく膠着が続いていたが、ランスが何か言おうと口元を動かしたとき、ユリがさらに身を屈めてランスに飛び掛ってきた。
「なっ!」
咄嗟に跳びすさったランスだが、不意を突かれて反応が遅れた。そのため、彼女の爪によって、服ごと二の腕を浅く切り裂かれた。
「救世者」の称号を持つだけのことはあり、常人の攻撃などは歯牙にもかけない彼だったが、かわしきれなかったのは気の緩みからだけではなかった。ユリの動きもまた、常人離れしたものだったのだ。
およそ説明のつかないユリの俊敏さに、ランスは戸惑う。
その間にもユリは唸り声をあげながら、腕を振りかざして次々と攻撃を繰り出してくる。
さすがにランスも二撃目を受けることはなく、鮮やかな体捌きで次々と攻撃をかわす。しかし腰が引けているのか、次第に押されていき、やがて別の袋小路に追い込まれてしまった。
このままでは、次は深手を負うことになる。
ランスは焦りつつ、ようやく剣を構えた。ただ、鞘は付けたままだ。
ユリはそれに怯むこともなく、じりじりとランスとの距離を詰める。
「ユリ。僕だ、ランスだ! しっかりしてくれ!」
どうしていいのか分からず、やけになってランスは叫んだ。
すると、ユリの動きが止まった。
ランスは、彼女が我に返ったかと期待したが、残念ながら彼女の表情に変化はない。ただ、彼女は苦しむような唸り声を発し、頭を掻きむしり始めた。
何が起きているというのだろうか。ランスは、恐る恐る彼女に近づく。
すると彼女は突然顔を上げると、短く吠えて、その場で跳び上がった。
何という跳躍力だろうか。彼女は一跳びで、傍らの家の屋根に乗っていた。そして屋根伝いに、ものすごい速さで逃げていった。
「どこへ行く!」
不利は承知だが、このまま見逃すわけにもいかない。
ランスも路地を走り、彼女の後を追った。まずいことに首を突っ込んでしまったと悔やみながら。
そして数分の後、何とか彼女に追いすがり続けられたランスは、彼女がソーンの家に飛び込むのを見届けた。
ランスは弾む息を鎮めて様子を伺いながらそこへ近づくが、それきり家の中からは何の物音も聞こえてこない。それがかえって不気味だった。
最悪の展開の予感を胸に抱きながらも、ランスはついに玄関に立ち、家の戸を叩いた。
やはり物音はしない。ソーンが起きてくる気配もない。
ランスが取っ手に手をかけると、ひとりでに戸は開いた。
静かな室内は、不自然なほどの闇に閉ざされている。
「ユリ? ソーンさん?」
声をかけるが、返事はない。
ランスは意を決して、家の中へと足を踏み入れた。
ランスがソーンの家に入った頃、ジョーはクローディアとともに夜の町を走っていた。
ランスが階下に降りた後、それに気付いたクローディアがジョーを呼び、ランスの後を追っているのだ。
「緊急のことだったとはいえ、ランスは一人で大丈夫であろうか」
クローディアの表情は冴えない。
しかし、走り詰めでありながら息を乱していないのは、さすがである。
ジョーも平然と走っているが、やはり答えは精彩を欠いている。
「大丈夫だとは思うぜ。ただ」
「ただ?」
言葉を濁したことを、クローディアが問い改める。
「相手がただ者じゃないような気がしないか?」
「確かに、私も嫌な予感がする。
普通の魔物なら無差別に人も襲うと思うのだが、この相手は姿を見せなければ安心だという。なぜそう言いきれるのであろうか。
それに、明確な敵として認識されていながら、町のほうでも対処していないのは不自然だ」
二人も、外に出る際に、ランスと同じように宿の主人から話を聞いた。
それゆえに、この出来事に不信を抱きながらランスを追っているのだ。
「だな。相手は、町の人に見られちゃ都合の悪い存在なんだと思うぜ。誰かが意図的に、その正体を隠している。
そしてご主人からの話を思い出してみたら、それが誰か、分かるよな」
「ソーン殿、だな」
「ああ。ちょうどランスの気配も、そっちに向かっているんだろう?」
そう言ってジョーは、自分達の向かっている方向を指差した。
クローディアは浮かない顔をしつつ、うなずく。
二人は、クローディアの神としての優れた認識能力によってランスの行方を掴み、追っているのだ。
そしてやがて、二人もソーンの家に足を踏み入れた。
ランスが入ったときと同様、そこには誰もいない。ここに確かに入ったはずのランスの姿もない。
悪い予感をいっそう募らせつつ、二人が闇に包まれた室内を見渡そうと目を凝らしていると、背後で扉が音を立てて閉じた。
「ジョー、気を付けるのだ。何かがおかしい」
クローディアが警戒してそう言った時には、既に遅かった。
仕掛けられた何かによって意識が遠のき、二人はその場に崩れ落ちた。