異聞録第5回
光風暦471年6月3日:いったい何を
黒い長衣の男が、森の中で一人立ち尽くしていた。その目から上は、風防けによって隠されていてよく分からない。
拳を握り締めた彼は、まるで血が通っていないような蒼白ぶりで、身動き一つしていない。
頬を一筋の汗が伝っているが、彼にはそれを気に留める余裕もないようだった。
「(あの『運命の戦士』は、私の真の名『フォーラ』を知っていた。
それだけではない、我が階位である『イヴァクセン』までをも。
この世界において、その名を語ったことはないはずだ)」
トワイライトと名乗って、ソーンやランス達の前に現れた男、イヴァクセン・フォーラ。
彼はユリやソーン達を陥れ、ランスやクローディアをも窮地に追い込んだが、その謀略はランスの予想外の力によって破られた。そして彼自身も「運命の戦士」ジョーに見つかり、報復を受けた。
その後もソーン達の一部始終を見続け、大団円を迎えた彼らを見届けた時点で、自らの完敗を思い知らされた。
加えて彼はその際に、ジョー曰くの「死にも勝る苦痛」を与えられている。
しかし、彼の体のどこが痛むわけでもない。
思考能力を蝕まれているわけでもない。
自覚できる異常は一つもない。
彼が身じろぎ一つできない理由は、別のものであった。
「奴は、私の正体を知っているというのか?
ならば、私の主のことも?
奴は知っているというのか? 主である『イヴァクス・テュエ……』」
思わず口をついて出ていた言葉を、彼は我に返って途中で飲み込んだ。
不用意に口にしてはならないと、かろうじて思考が働いたようだ。
語ったこともない正体を知られている恐怖。
そしてそれとともに彼を苛んでいる恐怖について、彼は再びひとりごちた。
「奴は私に、いったい何をしたというのだ」
フォーラは、森の中を歩く複数の足音に気づいた。それは既に程近い場所からのもので、しかもこちらに近づいてくる。
ここまで気付かぬまま接近を許したことは、フォーラにとっては不覚極まりないことであった。しかし既にどうすることもできず、姿を見せた足音の主と鉢合わせするしかなかった。
現れたのは、男女の三人組だ。女二人に男一人。いずれも若そうだった。
波打つ長い金髪の、ひときわ若い容貌の少女が後に控えている。
そして残る二人、いずれも黒髪の男女が前になって歩いてきた。
前列の男女が、賑やかに話している。
「ねえディクセン。これって本当に近道なの? 迷ったりしてない?」
「大丈夫、大丈夫。地図で見たから間違いないって」
「でも、街道のほうが速かったんじゃないの?
こんなに草むらを掻き分けてるんじゃ、まともに歩けやしないわよ。
街道を行ってるナイやダンは、もうナハルに着いてるんじゃないの?」
「細かいことを気にすんなって。
こういう地道な努力が実を結ぶんだぜ、ユーノ」
疲れた様子の女ユーノと、疲れ知らずの男ディクセン。気心の知れた口調で話している。
言わずと知れた悪魔達だ。ジョーに敗れてから、今日も今日とて彼の行方を追い続けている。
彼らはフォーラの姿を目に留めると、気さくに挨拶してきた。
「おっ。こんなところで人に会うとは驚いたぜ」
「こんにちは。あなたも道に迷ったの?」
と、ディクセンとユーノが口々に声をかける。
すかさずディクセンがユーノに、「いや、だから俺達は迷ってないって」と釘を刺しているが。
とっさのことで、フォーラは返答ができない。
口を半開きにしてどうしたものかと狼狽していると、後ろからもう一人の少女が歩み出て、緩やかな会釈とともに挨拶の口上を述べた。
「ごめんなさい、突然だったから、びっくりされたでしょう?
私は、イングリットといいます。
私達は、ただの旅のものです。安心してくださいね」
やけにのんびりした口調が、その言葉の内容以上に無害感を漂わせている。
「は、はあ」
フォーラはますます調子を狂わされてしまい、そのように気の抜けた返事をした。
努めて理性を保ちつつ、改めて彼は、現れた三人を観察する。
緩く波打つ金髪の、幼い顔立ちの少女。イングリットと名乗った彼女は、全身から人形のような無害さを発散しているが、腰に長剣を吊っている。加えて彼女は、どこかの制服らしきものを着けている。
彼女が軍人だと判断した彼は、自らの知識の中から彼女の正体を割り出した。
この国の軍、レグナサウト防衛軍の構成員。しかもイングリットとは、東部防衛軍の頂点に座する「東方の衛士」だ。只者ではない。
「雷光の騎士」「運命の戦士」と、立て続けに想像を絶する力を持った人間に遭遇した彼には、途端にこの少女が恐怖の対象と思えてきた。
フォーラは動揺を押し隠しながら、残る二人に目をやる。
ディクセンと呼ばれていた男、ユーノと呼ばれていた女は、どちらも人間ではないらしい。
人間の敵、悪魔だ。
彼は、ここまでを人外の知識や洞察力によって読み取り、ますます恐怖を募らせた。
なぜこの三人は、一団となって旅をしているのか。
敵同士であるはずの人間と悪魔が、なぜともに旅を?
悪魔のディクセンとユーノが、人間のイングリットを騙しているのか?
いや、そんなはずはない。いかに愚かな人間とはいえ、「東方の衛士」と呼ばれる存在なら、易々と悪魔に騙されることもないだろう。
結果、フォーラは思った。
理解不能だ。
不気味だ。
彼は、やにわにこの場から逃げ出したくなった。
ソーン達を手玉に取っていた、それまでの居丈高な自信もどこへやら。誇りの全てをランスやジョーに打ち砕かれた彼は、すっかり腰砕けになっていたのだった。以前のディクセンやユーノと、同じ道のりをたどっているらしい。
しかし、逃げようと思ったものの、体が動かない。
恐怖に萎縮してしまっているのか?
フォーラは、自分でも今の自身の状況が理解できなかった。