異聞録第6回

光風暦471年6月3日:死にも勝る苦しみ

 フォーラが逃げることすら叶わぬ内心の狼狽と格闘しているうちに、イングリットが緩い口調で尋ねてきた。

「あなたのお名前は、何とおっしゃるのですか?」

 天使のような、含むもののない純粋な笑顔だ。

 フォーラが人間なら、この笑顔で骨抜きになっていたかもしれない。

 しかし彼は人間ではないし、それどころでもない。

 何と答えたものか。それとも、このまま何とか逃げ出すか。

 そうだ。自分は姿を消すことができたのだ。これでこの場から逃げおおせる。

 そうフォーラが思った矢先だった。

「フォーラと申します」

 明快な答えを返す者があった。フォーラはたまげた。

 またしても、自分の名前を勝手に告げる者がいた。

 あの「運命の戦士」が戻ってきたのか? いや、あの男はここにはいない。

 では、新たな来訪者が現れたのか? 違う。ここには第三者はいない。

 ではいったい誰が?

 彼が答えに至るまでには、ずいぶんな時間を要した。

 その名を告げたのは、自分自身だったのだ。

 口が勝手に動く!

 そう叫ぼうとしたのだが、なぜかそちらは言葉にならない。

 言いたくないことを口にして、言いたいことは話せない。

 いったいこれはどういうことなのか。

 しかしイングリット達は、そんなフォーラの動揺にはまったく気付いていないようだ。彼の思考が、一切表情に出ていないらしいのだ。

「フォーラさんなのですね」

 極上の笑顔を見せるイングリット。

 そしてディクセンが、上機嫌で尋ねてくる。

「ここで出会ったのも何かの縁だ。

フォーラさん、尋ねたいことがあるんだけど」

 これ以上、この者達と関わりあいになるのは御免だ。早く逃げ出さなければ。

 しかしフォーラは、またしても意思と裏腹のことを口走った。

「はい、私でお役に立てることなら、何なりと」

 フォーラは錯乱した。

 一度ならず二度もである。いったい自分に何が起きているというのだ。

 しかしディクセンも、そんなフォーラの心境にはまったく気付いていない。

「俺達、ジョーっていう大男を探しているんだ。

この近辺に姿を現したはずなんだけど、見かけなかったかい?

金髪の逆毛でやたらとでかいから、一度見たら忘れないとは思うんだけど」

 その瞬間フォーラは、雷に打たれたような衝撃を味わった。

 ジョー! そうだ、自分に何かをした「運命の戦士」の正体こそが、「雷光の騎士」ランスとともにいた金髪の男、ジョーだ!

 フォーラはそのことを知っていた。なぜなら、ソーン達のその後をここから見届けていた際に、ジョーがソーンに正体を明かしたところも見ていたからだ。

 そして彼の口は、やはり淡々とこう語った。

「はい、存じています。

先程あの方は、ナハルの町において、人々を魔物の脅威から救いました」

 何と余計なことを語る口だ。「会った」とだけ言えばいいものを、胸が悪くなるような修飾まで付けてしまうとは。彼の心に歯があったなら、きっと悔しさで歯軋りしていたことだろう。

 しかしそんな胸中は、やはり周囲には全く伝わっていないようだ。

「おお、知ってたんだな。ありがとう! これであの野郎に追いつける!」

 ディクセンは飛び上がらんばかりに喜んで、フォーラの手を握った。

 いったいこの三人は、ジョーに会って何をしようというのだろう。

 フォーラはそう疑問に思ったが、その答えを推測する前に、今度はユーノから質問を受けた。

「ところでフォーラさん。ナハルの町までは、どうやって行けばいいのかしら。

このディクセンがどうも頼りなくて、うまくたどり着ける自信がなくて。

よろしければ、教えてくださらないかしら」

 その言葉にディクセンが憮然となっているが、フォーラの口はあくまで流暢に、丁寧に、そして勝手にこう答えた。

「承知しました。せっかくですので、ご案内させていただきましょう。

こちらです。どうぞいらしてください」

 フォーラは内心では、すっかり取り乱していた。

 自分は泥沼に片足を突っ込んだばかりか、あろうことか腰までどっぷり浸かろうとしている。

 悪夢以外の何物でもなかった。

 彼は、泣き出しそうな気持ちになっている自分を感じていた。

 そしてフォーラの口は、そんな彼に追い討ちをかけ、感謝の笑顔を見せる三人に対してこう言った。

「お役に立てるなら何よりです。

私にとっては、誰かの喜ぶ顔を見ることが、一番の生きがいなのです」

 ここに来て、ようやくフォーラは悟った。

 これこそが、ジョーにされたことなのだ。彼曰くの「死にも勝る苦痛」の正体。

 フォーラ曰くの「たかが人間ごとき」を喜ばせることを、至上の目標として行動させられる。

 自らの意思は、そこに一切反映されない。

 これこそは彼にとって、いみじくも「死にも勝る苦痛」だった。

 フォーラがユリにしたことと同じことをもって、ジョーはフォーラに報いたのだ。

 そのことを思うと、怒りで気が遠くなりそうだったが、むろんそんな心境は一切表に出ない。

「すばらしいです、フォーラさん。尊敬します」

「本当に。ディクセン、あなたもちょっとは見習いなさい」

「うるさい黙れ。俺様はいつだって、正義の悪魔」

 何か矛盾したようなことを言いかけて、ディクセンがユーノにはたかれている。

 ジョーの仕業かイングリットの影響か、この悪魔達も相当毒気を抜かれているのだが、フォーラにはそれに気付くゆとりはなかった。

 そして彼は、実際に声に出すこともできず、心の中で深いため息をつくばかりだった。

-第4部へ続く-