世界と黒天王・異聞録第1回

光風暦471年5月15日:ジョーの足跡

 曙に照らされるレイザンテを一瞥しながら、一組の男女が立っていた。

 彼らは丸腰で、これといった荷物も持っておらず、旅人という風体ではない。かといって、野良仕事に出かける町の住人というわけでもなさそうだ。

 いったい、何者なのだろう。

「……ちっ。仕方ないな」

 そうつぶやいた男の表情を、新しい日を告げる曙が、密やかに照らし出していた。

 とても不機嫌そうだ。

 黒くて短い、逆立った髪。かなりの長身で、吊り目気味の凛々しい目元など、どちらかと言えば優れた容姿をしている。

 そんな男に対して、女が肩をすくめて、こうこぼした。

「いいから、さっさと行くの。

このままじゃ悔しいって言ったのは、ディクセン、あなたでしょう」

「ああもう、分かったよユーノ。

愚痴ったところで、あの野郎が現れるわけじゃないってんだろ」

 男の名はディクセン、女の名はユーノというらしい。

 ユーノの方も、髪は黒。後頭部で縛って、長く垂らしている。鼻筋の通った、大人びた顔立ちをしていて、十分に美人とも言える。

「そういうこと。さあ行きましょう。

町の奴らの会話からすると、あいつらは東に向かったみたいだし、そっちに急ぐわよ」

 と言って、ディクセンを置き去りにせんばかりの勢いで、ユーノは歩き出した。

 慌ててディクセンも後を追う。

 そうして、しばらく二人は歩きながら会話を続ける。

「しかし本当に……あのジョーという奴は、いったい何者なんだ」

「見当もつかないわ。

あのエブリット様の一撃を受けて、生きているだけでも驚きなのに」

 実はこの二人は、町の住人に成り代わってレイザンテに侵入していた悪魔だったのだ。

 それがこうして、人間に化けているのだ。

 彼らは、「西方の聖者」クローディアをレイザンテから引き剥がし、その身柄を彼女の敵であるエブリットの手中に収めるために、数日前に一芝居を打っている。

 しかし、その企みはジョーに看破されて、ついえてしまっている。

「ああ。そしてあいつは、あんな深手を負いながら、この俺達に喧嘩を売ってきた。

そして、そして……」

 ディクセンは悔しそうに歯噛みする。

「あいつは、私達を完膚無きまでに叩きのめした。

私達は、まるで歯が立たなかった。

そして私達は、魔法封じの結界が張られた牢に入れられた……」

 ユーノはそう言って、ため息で彼に応じた。

 ジョーは彼らの企みを看破したのみならず、彼らを屈服させて、なおかつ町の牢にぶち込ませていたのだ。

 数日が過ぎた今朝、彼らはようやく牢から逃げ出してきた。

 それも、なぜか牢の鍵が空いていたという理由によって。

 悪魔達の誇りがずたずたに傷ついていることは、想像に難くない。

「牢に入れられたことも屈辱だが、一番屈辱なのは、あいつのべらぼうな強さだ。

あいつが人間だとしたら、あの強さは説明がつかない!」

「もちろん私達が、人間ごときに後れをとるはずなんかない。

あいつが人間だとは、正直、考えにくいわ」

「まったく、図体がでかいだけの間抜けにしか見えないのに、なぜあいつは……」

 再びため息をついて、彼らは東へと進んでいく。

 彼らの矜持を傷つけた、ジョーという謎の男の行方を追うために。

 そして彼の正体を知るために。


「……ねえちょっと。

こんな時間に人間がいるわよ」

 いくらも歩かないうちに、ユーノがディクセンに耳打ちする。

 今まで暗くてよく分からなかったが、彼らの行く手に、確かに人が立っている。

「本当だ。

女のようだが……怪しい奴だ。どうする」

「ど、どうするって言われても。今さら隠れると不自然だし」

 悪魔とは思えない卑屈な台詞だ。

 ジョーに負けたせいで、すっかり弱気になっているようだ。

「そうだな。

怪しい奴なら……始末すればいいだけのこと。

とにかく行くぞ」

 弱気なのはディクセンも同様だということを、彼の言葉の中の微妙な間が物語っている。

 ともあれ彼らは、警戒しながらそのまま進み、「人間」と顔を合わせた。

 先に声をかけたのは、相手の方だった。

「おはようございます」

 その声というのが、何とも間が抜けた、のんびりしたもので、悪魔達が保っていた緊迫感が一瞬で壊されてしまった。

 すっかり調子を狂わされた悪魔達は、揃ってまくし立てる。

「あのなあ! こんな時間にいきなり出くわして、『おはようございます』はないだろうが!」

「いったい何者なのよ、あなた!」

 「人間」は、黙って立っていれば、清楚で知的な少女だ。黙って立っていれば。

 緩く波打つ金髪に、白い衣装がよく似合っている。青い目をした、人形のような幼くて素朴な顔立ち。

 腰には細い剣を吊っていて、冒険者の雰囲気はあるが、衣装が制服のような様式で、それが彼女の正体に疑問を抱かせる。

 それで、悪魔達はこのように怒鳴り散らしたわけなのだが。

 これに対して、彼女は意外なほどにあっさり、そしてのんびり、答えを返した。

「わたしは、イングリットといいます。

あなたがたを、まっていました。悪魔さんたち」

 悪魔達は、驚きのあまり、言葉が口から出なかった。

 完璧な変身のはずなのに、いきなり正体を見破られたから。

「なぞの戦士のゆくえを、おっているんでしょう?

わたしもいっしょに、いかせてください。

そのひとが何者か、しりたいんです」

 しばらくの時間が過ぎて、ようやく悪魔達に言葉を発する余裕が戻る。

 そしてディクセンは、開口一番。

「いや、奴は戦士っていうほどの、大層なものじゃないぞ」

 すかさずユーノが、的外れなことを言うディクセンの後頭部をはたいて黙らせる。

 この悪魔達、意外と軽い性格をしているようだ。

 もっとも、人間に化けて旅をすることからして、悪魔としては規格外なので、今さら驚くほどではないのかもしれないが。

「とにかくお断りよ。

私達の正体を知っている以上、連れて行くどころか、生かしておこともできないわ。

ディクセン、やっておしまい!」

 自分で動こうとしないところは、性格ゆえか。

 どうやらディクセンの立場は、ユーノより下にあるようだ。

 渋々ながらディクセンは戦いの構えをとるが、やがてその表情は真剣なものへと変わっていく。

 ようやく、悪魔本来の残忍さを取り戻してきたようだ。

「まあ、そういうわけだ。

どういうつもりかは知らんが、知りすぎたことを後悔するんだな。

せめて苦しまないように殺してやるさ、お嬢ちゃん」

 そして、相手に構える隙を与えず、イングリットの脳天に手刀を叩き込む。

 とっさのことで悪魔の姿に戻ってはいないが、その鋭い攻撃は、やはり人間のものではない。

 だが、このイングリットがまた、ただ者ではなかった。

 にこやかな表情のまま、体勢を変えることすらせずに、手刀を片手で払いのけたのだ。

 唖然となるディクセンに、イングリットは言った。

「わたしは、レグナサウト王国『東方の衛士』イングリット・ウルム。

あなたたちの釈放とひきかえに、戦士のそうさくにきょうりょくを請います。

ごきょうりょく、いただけますね?」

「東方の衛士! 『四面の衛士』か!?」

 この地、レグナサウト王国において、最強とされる四人の戦士がいる。

 歴代の王に仕えるその戦士達は、国の四方に配置され、「四面の衛士」と呼ばれている。

 その衛士の一人であるなら、イングリットの強さも納得せざるを得ない。

「結局、私達が牢から出られたのも、あなたの差し金だったわけね。

ついていたと思ってたら、大違いだったと」

「はい。そういうわけです」

 変わらぬ調子でにこやかに言うイングリットに、ユーノは肩を落とす。

「はあ……どうして私達、こんな化け物にばかり出くわすの。

どのみち、私達に選択の余地はないんでしょう。

一緒に行きましょう……」

 「どうして人間『ごとき』と」という言葉が口から出かかるが、その人間に完敗した手前、これ以上言葉を継げない。

 すっかり、イングリットにしてやられた形だ。

「よろしくおねがいします。

なかよく行きましょうね」

「やかましい!」

 こうして、ジョーの知らないところで、密かにその足跡を辿る旅が始まった。

 そして同時に、悪魔達にとっては、頭の痛い道中が始まることになった。