第5回
光風暦471年6月1日:闇に潜む影
やがてランスが、宿にひっそりと帰ってきた。
その横顔は幸せそうであり、そして疲れたようでもあった。ユリを送る道中、ずいぶん緊張したのだろう。
彼は静かに階段を上がり、ジョーのいる寝室に入った。ジョーは既に眠っていて、クローディアも別室に戻っているようで、部屋はひっそり静まり返っている。窓の隙間から差し込む月明かりが、ほんのり室内を照らし出している。
ランスは、顔の火照りを冷まそうと、窓際に行ってしばしくつろぐ。
開け放った窓枠に肘を突いて顔を支え、前屈みになって外を眺める。
「(ユリ、冒険者に憧れるって言ってたなあ。
こうして町で暮らすのにも、不自由はないように思うけど)」
彼は視線を、そばに立てかけた自分の剣に向ける。
「(英雄になりたい、か)」
その眼差しは優しかったが、どこか複雑な感情が混じっているようにも見える。
「(本当にまっすぐな気持ちでそう言ってたな、ユリは。
できることなら、その手伝いをしてみたいけど)」
そこで彼は我に返り、ぶるぶると首を横に振った。
「(何を考えてるんだ、僕は。目的あっての旅に、ユリを連れていくつもりなのか?
さすがにそれはできない。平穏なことばかりじゃないんだ)」
彼は小さく溜め息をつく。
「(そもそも、何かを失う覚悟もなしに英雄など目指せるんだろうか。
ユリにしても、そして僕にしても。
僕はまだ、それを体験したことがない。
そうなった時、僕はどうするだろう。僕は何ができるだろう)」
ランスは、うつむきながらしばし思いふけった。
「(重いよね、英雄って)」
思考の連鎖を断ち切り、ランスは立ち上がって窓を閉めた。
ちょうどその時、窓の外から大きな物音が聞こえてきた。
木箱が打ち砕かれたような音が立て続けに。
魔物だろうか。そう思ったランスは、剣を手にして階下に急いだ。
すると1階で、不意に宿の主人に呼び止められた。
「お客さん、悪いことは言わない。外には出ないほうがいい」
まさか主人がいるとは思っていなかったランスは、面食らいつつ彼に訊いた。
「でもこれって、魔物じゃないんですか?
ただの酔っ払いというわけじゃないでしょう。
だったら、町の人が危険です」
主人はランスをなだめる。
「その心配はいらないよ。
外に出なければ、魔物は決して襲ってこない。
ソーン先生がそうおっしゃっているし、事実今まで襲われた人はいない。
何が起きているのかは、決して見てはいけない。
静かになるのを待ちさえすれば、怪我をすることはない。
先生は、そうおっしゃっているんだ」
だが、彼のその声は精彩を欠いていた。
すっきりしないのは、その言葉を聞いたランスも同じだ。
「だからと言ってこの物音、町が破壊されているんでしょう?
これでいいって言うんですか?」
主人は答えない。危険がないと考えているのは事実だろうが、現状を快く思っていないのもまた事実のようだ。
しびれをきらしたランスが言い放つ。
「見てきます、その魔物を。退治できるかもしれませんし」
そして外へと駆け出す。
「危ないよ、旅の人!」
主人が慌てて制するが、ランスは毅然としてそれを拒んだ。
「大丈夫、これでも戦いの経験はたくさん積んでるんです」
それだけ言い残すと、ランスは外に踊り出た。
虫の声すらなりを潜めた街中に、その原因となっている大きな物音が響き渡っている。
様々な物が壊されているようで、色々な種類の音が聞こえてくる。
音源は一箇所だ。ランスは迷わずそこへと走る。
普段の穏やかな様子からは想像し難い俊敏さだ。その身のこなしは、およそ人間離れしている。
常人が走って数分かかるところを、ランスは一分とかけずに走り抜けた。
「(ユリも、ちゃんと家でおとなしくしてるんだろうな。
大丈夫だとは思うけど、そうあってほしい)」
そう思いながら彼が行き着いた先は、路地の奥の袋小路だった。
周囲は家に囲まれているが、人々は怯えて引きこもっているらしく、顔を覗かせる者もいない。
そしてその闇の中、ただ一つ動く影があった。
人だ。周囲にある物を掴み、そして投げては壊している。
その動きに、およそ理性は感じられない。
破壊衝動にかられて、その人影は暴れているらしい。
駆け付けたランスが、人影に向かって叫ぶ。
「そこで何をしている!」
人影の動きは止まり、そしてゆっくりとランスへ目を向けた。
月明かりが、その顔を照らし出す。
ランスは、虚ろな眼差しを向けられて、驚愕の声をあげた。
「ユリ……?」